指名をされる理由とは
個別指導学習塾をやっていた当時、生徒が「○○先生の教え方が分かりやすかったぁ~」と言われ、その講師を指名してくることが度々あった。
何も考えない愚かな塾長であれば、ホイホイ喜んで当ててしまうが、後々となって問題が起こる。
例えば、
1.その講師が出勤できない日にその生徒の指導日になれば…(想像に任せる)
2.講師と生徒が癒着して成績が伸びなくなる
3.特定の講師に生徒が集中して、他の講師の仕事が無くなる
などなど、沢山の問題が起こる。
だから、俺はそういうリクエストは95%断って来た(爆)
おっと、塾の具体的な話になると、組織作りや人材育成の話になるので、これ以上は企業秘密だ(ニヤリ)
そういうリクエストをもらった時に、どうしてその講師を当てて欲しいのか、を質問することにしている。
すると、ハッキリと具体的に教えてくれるケースは少ないのだが、ある程度、こちらから質問をし、その後、その講師の授業風景を観察することで、その講師が指名を受ける理由が見えて来る。
大体において、見えてくるのは、顧客側が言ってくる「分かりやすい説明」というのは、方便であることが多いなと気付く。
人気のある個別指導塾講師の特徴を俺なりに挙げてみる。
1.生徒に関心を持っているので授業の前に日常の話を互いに良くしてくれる
2.授業中の生徒への指導が会話のキャッチボールで成立している
3.生徒を認める発言や褒める発言が講師からテンポ良く出される
と、まぁ、こんなところだ。
あれ?教科内容の話が詳しい人じゃないのか?お話が面白い人じゃないのか?と思う人が多いだろう。それらはあった方が良いが、それだけでは広く生徒には好かれない。それは『生徒の学習レベルに合った内容』なら喜ばれるし『生徒に合ったお話』であれば好かれる。
ただ、そういった癖のある講師は、自ら『授業を受けてくれる生徒を選別』していることに繋がっている場合が多い。そうすると自ずと指導できる生徒の数を狭めてしまい、自分の仕事を失うことが多い。
その講師が持っている独自の知見や個性は、生徒とのコミュニケーションのとり方で引き出され、広がっていくことが多い。
そこで上記の3つに戻る。
キャピキャピの女子大生の講師でも、ちょっと変わった感じのオジサン講師でも、
生徒に関心を持って接し、
互いに認め合って、
励ましながら授業をしてくれる
そんな講師を生徒たちは指名してくるのだ。
決して、一言で相手をコロッと夢中にさせるスーパートークなど、存在しないのだ。
と、書いていながら俺自身が『指名される塾長』であったか、は不明だ(爆)
人はどうして勉強しないといけないのか
前職は個別指導学習塾の教室長をしていた。
あまり訊かれはしなかったが、答えを用意した方が良いと思っていた問いがある。
「どうして勉強しなければいけないの?」
実はこの仕事を辞めるまで答えを用意していなかった。と言うより、質問される場面も必要も無かった。
なぜかと訊かれれば、生徒が塾に入ってもらう前に実施する面談で「どうして塾に行こうと思ったのか」と俺が先に訊いてしまうからだ。塾に入る前の面談でその時の学習状況を訊いてしまえば、だいたいのことが分かってしまう。だから冒頭の質問の必要が無かったのだ。
仮に、「どうして塾に行こうと思ったのか」と塾長が質問してくれない個別指導塾は100%、目的を共有してくれない月謝だけ取ってただ勉強を教えているだけの塾だ。それだと大体において生徒の成績は伸びない。その塾への入塾は見合わせた方が良い(笑)
塾に入った後も、生徒が挫けそうになった時でも「どうして塾で勉強しているのだったか」と話し合って確認すれば大抵は解決する。
その上で冒頭の質問をしてくる生徒が居れば、それはただの屁理屈で、現実を見ていないだけ。また違った方法で、再び頑張ってもらうようにアプローチする。おっと、これ以上書くのは、企業秘密だ(ニヤリ)
さて、前回紹介した派遣労働を通して、ぼんやりと考えていた冒頭の問いに答えがハッキリ浮かんできた。
『労働は苦役』なのだから、自分のやりたいことや出来ることを見極めて、社会とどのように関わっていきたいのか、と職業を選択していけば、「仕事こそ我が人生!」と言い切れて、何時間働いても疲れも感じず、生き生きと過ごしていける。と、ごく当たり前かもしれないことをハッキリと自覚した。
その上で「どうして勉強しないといけないのか」と問われれば、
1.自分の好きな事、やりたい事をハッキリと言語化できるように表現力を身につけ、
2.感情に流されずに冷静に客観的に考えて答えを出せる訓練をし、
3.自然や世の中の仕組みを知り、実際に触れる前に仮説を立て準備をし、
・・・と書き出したら、学校の指導要領のような文章になってしまうので割愛するが、
要するに、
「自分に合った好きな事で楽しく生活するために、自分の体にその方法を染み込ませるため!」
だと、今の俺は答えを出した。
ということは、「何が好き?」「何をしている時が楽しい?」と自分自身に焦点を合わせて、他人の評判や個別の職業名(大企業の社員、公務員)など表面的な事柄を取り除いて、考える機会を作る必要がある訳だ、なぁ。
労働は○○である
現在、辞める会社の有給休暇を消化している最中だが、暇でブラブラしても仕方ないので、今後の準備の合間を縫って、派遣労働を3日間やってみた。
アルバイト・パートだと、『帰属意識』は少なからず必要なわけで、「超短期の仕事下さい」と言って採用される訳が無い。俺が店長なら教育が面倒くさいので、電話問い合わせの段階で断る。
『1日限りの単発の仕事』として派遣労働というものがどういうことなのか、やってみて理解しないと気が済まない性分なので、調べるよりも考えるよりも現場に飛び込んでみた。
仕事の紹介に『軽作業』とあり、その現場に赴く。休憩を含めないで計算すると5時間~6時間ほどの仕事だ。言われた通りに現地に向かい、集合場所でそこの責任者っぽい人に「派遣で来た○○です」と言うと、点呼を取った後、「●●さんに付いて仕事してね」とポーンと放り出される。仕事自体は難しくないので、覚えれば右から左に流す感じのルーティンになる。
やってみて分かるのだが、この『軽作業』の意味とは、あまり考えなくてもルーティンで出来る仕事、頭を使わなくても気を使わなくてもできる作業であり、脳みその負担が『軽い』作業のことだ。踏み込んで言えば、脳みその負担は『軽い』が身体的には『重い』仕事、いわゆる『重労働』である。
5~6時間の労働の中で、前半の2~3時間は、何も考えずに体を動かすことで『心地良い肉体労働』となり、汗を流して体を使う。『これはダイエットになるぞ!』と『労働の喜び』の時間となる。
ところが休憩を挟んで後半になってくると少し事情が変わる。
肉体の疲労と共に体力が減退し、筋肉や関節が悲鳴を上げてくる。次の作業に行こうと前半戦は小走りで行けたのに、後半戦では腕を振っても足が上がらないし走れない。
しかも『言われた事だけ』の単純作業というのは、自分で計画を立てない分だけ、ゴールが見えない。唯一、見えるゴールは契約している終了時刻だけ。
終わる時間を腕時計で気にしながら、それでも終わるまで一生懸命働く。こんな事をやっていて、ふと思った。
なんて俺は意識の低い労働者なんだ!
労働とは苦役なのか?!
俺は何か悪い事でもして、この単純作業に従事させられているのか?!
自分の境遇としては、有給消化中にさらに働いて対価を得るのだから、働けば働いた分だけ儲けになる。苦役でも何でもないはずだ。
でも、その時、ハッキリと『この労働は苦役だ』と思ってしまったのだ。
いったい、何が違うのだろうか。
確かに12年勤めて来た仕事は、時間など気にしないで気が済むまでやって来たし、『仕事は人生そのものだ!』とさえ思っていたのだ。
少し調べてみた。『労働』という言葉は聖書では『苦役』を意味するらしい。元々、『労働は苦役』なんだな。そこに『やりがい』という概念を入れて『仕事は人生そのものだ』なんて言う俺のような人種は日本人くらいだと言われているらしい。
生活していくお金をもらうために労働するのだから苦役であり、その労働者には保護されるべき権利があり、だからこそ、休憩時間もあれば、休暇制度もあるというのが、聖書の考え方、西洋の考え方だ。
西洋から輸入された労働者の権利とは、『労働は苦役だ』という思想の元に立脚しているわけだ。
お金以外で『やりがい』って、どんな所から来るのか?
それは仲間との『連帯』や彼らからの『賞賛』であったり、仕事をくれた人達からの『感謝』やその現場が良くなっていくことの実感、その他にもあったりする。
もちろん、それらは誰が指示をするのではなく、自分で計画して自ら実行した結果から得られるものだ。
労働で得られる『やりがい』って、そう考えてみると、とても『頭を使う』。その『頭を使った』結果、得られる対価はひょっとすると、非常にハードルの高い、高嶺の花になっているのかもしれない。
『頭を使って』何をするのか?
自分の理想や目標をハッキリさせて、自分の能力を分析し、どのように社会に関わって行くか、を考えるのだ。
やっと自分の頭で考えることの意味が分かって気がしてきた。
肉体労働で汗をかくのではなく、『仕事こそ我が人生』と楽しく生きていくためには、考えて考えて『脳みそに汗をかかせる!』のだと自分に言い聞かせている。
ホームとアウェイ
力を抜いて再スタート
15年位前、インターネットが世の中に出始めた頃、個人でホームページを作り、その後、ブログも書き始めて、7~8年くらい継続していた。
30歳台半ばでやっていた仕事が、出てくる課題を右から左にこなすものだったり、いつも誰かのフォローや誰かの失敗の尻拭いや後片付けだったりして、急に気分的に大人になったような、なんだか醒めた気分になって、書き溜めたブログがとても子どもじみている様なものに見えてきた。TwitterやFacebookをやっているうちに、好き勝手書くのはそれでいいと、ブログの必要性が無くなって辞めてしまったというのが、主な原因。
ちょうど1年前に、それでも何か書いてみたいなと2つ記事を書いてみたが続かなかった。
どうやら妙に完璧主義的なところがあって、文章を書いていくうちに息苦しくなって挫折した。
素直に書けない文章をカッコつけて書いて、後で読んでみると、とても気恥ずかしい。こんな気恥ずかしさは、昔書いたブログには無かった。ということで、また削除した。
あまり書いては消してしまうようなブログというのも、それはそれでカッコ悪い。
もう、何でもいいやと、今度こそは思ったことを素直に書いてみようと思う。