思った事を素直に書こう

12年勤めていた会社をあっさり辞めたので次の展開に向けて好き勝手書いていくブログ

3.11のこと

今日であの震災から もう5年になる。

私がいる群馬も震災の影響をジワリと受けた。

内陸部なので津波も無ければ、地震震度5強で揺れたのは確かだが、それほど大きな被害はなかった。

地震そのもののダメージより、その後の東電原発事故に起因する停電によるダメージの方が遥かに大きかった。思い出すだけで腹立たしいので、今まで記録を残さなかったし、振り返りもそれ程しなかった。

ただ、今の生活スタイルにあの震災が変えたという側面もあると思うし、もう当時勤めていた会社も辞めてしまったので、思い出しながら振り返ってみたい。

 

2011.3.11

14時ごろ 当時の塾に入社した時から通ってくれていた高校3年生が入試の結果報告に来てくれていた。小学生の時からの秀才君で、K応大学に入学を決めたと報告してくれた。本当は東北大学に行きたかったが成績が足りずに断念したとのこと。私自身の受験を思い出し、縁がある大学だと思うから悔いは残さないで決まった大学で頑張れよと話していた。

14時45分ごろ 報告に来てくれた高校生の彼が帰ろうとしたところ、ぐらっと揺れ始める。「ああ、また地震か」と言う間もなく、揺れが大きくなる。ちょっと何かあったらマズいからとりあえず外に出よう、と彼と一緒に表の大通りに出る。

表に出ると隣の美容室のマスターも出ていた。マスターが手にしていた携帯電話のTVワンセグ放送ではは、東北で大きな地震があり大津波警報が出ていると。

唖然としながらも、間を置かずにまた大きな余震がやって来る。近所のガソリンスタンドの看板がガタガタ音を立てて砂埃がハラハラ落ちて来た。

その時、その地震の大きさを実感。余震も落ち着いたとみて、職場である自分の教室に戻る。高校生の彼も帰宅すると帰って行った。

当時いた教室は高崎駅から歩いて10分ほど。自分で新規に立ち上げた教室なので、本棚などの耐震対策は万全で被害無し。授業はまだ始まる時間ではないので、生徒たちは誰も来ていない。自分の持ち場は幸いにして問題無し。

その後、頭にあるのは他の教室に居る部下の教室長たちの事。まずは築100年以上の建物を借りている教室に電話を入れる。被害は案外軽く問題無し。また揺れたので避難を促し電話を切る。

次は隣町で車で5分もあれば行ける教室に電話するが、既に電話はパンク。通じなくなる。ネットなら普通に使えたので、Skypeで連絡を取ろうとしたが、ログインのサインが無く、これも通じない。その教室は頑丈な鉄筋コンクリートの建物に入居しているので、大丈夫だと思うが少し心配になる。

16時ごろ 採用したばかりのアルバイト学生の研修を予定していたが、こんなんじゃ来れないし、無理だろなと思っていたら、約束通り来てくれた。思わず「あんたは偉い!」と口走ってしまう。普通に礼儀正しい学生だったので、事情を説明して電話応対の簡単なマニュアルを渡して、30分だけ留守番をお願いする。

向かうのは電話が通じない隣町の教室。車を走らせてその教室近くの病院前まで来たら、その理由が分かった。信号をはじめとして、その辺一帯が停電なのだ。

停電になると、電気をはじめ、固定電話も止まってしまう。光電話だと電源が切れれば不通になるのだ。携帯電話も基地局で停電になれば電波が出ないから不通になる。電気が切れれば、通信も遮断されるのだ。

その後、隣町の教室に行くと、もう夕方で電気がつかず薄暗い。恐る恐る中に入るとゲラゲラ談笑している声。教室長と早めに出勤した学生講師が居て共に無事。携帯電話もネットも使えなくて、連絡手段が断たれ、笑うしか無い状況だったようだ。本棚が崩れ埋もれて怪我をしている事も最悪想像していたので、とにかく無事で安心。

もう一つ、埼玉に教室があるが、鉄骨ラーメン構造の建物に入居していたからか、免震で揺れまくり本棚が崩壊してしまったとメールで報告してくれた。そこの教室長も無事だった。

三重県の教室は、あ、少し揺れましたね〜というリアクション。もちろん無事。

すぐに自分の教室に戻ると、当日の授業を担当する学生講師から電話が来る。今、車で向かっているが、国道18号が渋滞で動きが取れなくて戻るにも戻れないから、とにかく行きますと。その意気を汲み取り「あんたも偉い!」と言いつつ待つ。

街の東側は大停電、国道は渋滞、大きな余震が続く、どう考えても授業なんか出来ない。

連絡がつく家庭から休校の電話を入れる。「仕方ないですよね」「出掛けられないですよ」そんな話ばかりで電話を切る。

大停電の地域の家庭には案の定、連絡が取れない。おそらく来れない事を想定しながら「届け!」という思いを乗せて休校の旨メールを発信。

19時過ぎくらいまで学生講師達が教室に待機してくれたが、家族が心配するだろうからと帰したように記憶。

20時ごろ。その日の最終授業が始まる時刻まで、待機。数人、来てくれた生徒たちもいたが「やっぱりお休みですよね」と言われながら、ごめんなさい、申し訳ないと言いながら謝り倒していたような記憶。

バタバタして気が付いたのは21時。教室を締めて帰路に向かう。大地震からだいぶ時間が過ぎたが、車を走らせると所々、停電で信号が点いてない所を通り過ぎる。

帰りの道中、興味深かったのは、停電する地域が大きな道路や河川を境にして区切れていた事。後日実施された忌まわしい計画停電の時に意外と役に立つことになる。

幸い自宅に被害も無く、停電も免れた。

翌日からの事を考えると、眠れないなとおもいながら、床に入ると疲れなのか他に原因があるのか、すーっと寝入ってしまった。

つづく